LITERA(リテラ)の松本人志批判のどこがマヌケなのか?
本と雑誌のニュースサイトと言いながら、リベラルで左寄りの記事ばかりあげる香ばしいサイト、LITERA(リテラ)が松本人志のワイドナショーの発言を記事で批判しています。少しだけ話題になりましたね。
もともと安倍首相が出演したり松っちゃんの発言が時々保守的な発言をする事もあり、LITERAはサイゾーの系列で休刊した噂の真相からきた左寄りの人たちだから、その時々で良く思ってはいなかったんでしょうね。
いろんな人に平均年齢60歳超えてる左翼系フリーライターの掃きだめ、なんで言われてるところですから。
該当記事も芸能人が顔を映像でさらして、本人の発言として言ってるのに署名が編集部ってダサすぎるでしょ。海外のメディアでも辛辣な批判やエッジの立った意見もあるが、必ず記者個人の署名入りだ。これが日本のメディアのすごくダサイところだと思う。堂々と記者がプライド持って発言するべき。よく日本のリベラルな新聞がBBCがこんな事書いてるとか、NYTimesがこんな事書いてるって引用したりするけど、記者によってリベラル寄りだっだり中道右派もいて、日本の社説みたいなもんではないよね。
ましてや、そこの記者が軒並みリベラルなんて余計報道の自由がないみたい。そこに入社したら、リベラルにならないとダメなんて、それってファシズムじゃん。
一生懸命書き起こしてるけど? それがそもそも違うんじゃない?
この記事ではワイドナショーでの松っちゃんの発言をテキストでいちいち書き起こし「マスコミが自分の発言をトリミングして悪意がある」もしくは意味を偏向して記事にしているという意見に対して
「ほら!テキストに書き起こしてみたけど、そうではないじゃないか!」
と一生懸命批判している。
特に宮崎駿の引退に関する記事という少し古いネタをわざわざ持って来たのはキーワードでバズらせたいのか?話題性やSEOを考慮しての事だろう。
もちろん、この書き起こしたテキストを間違っているとか改ざんしていると言うつもりはない。
だが、そもそもこの批判の形式が意味がないんじゃないの?
松っちゃんが映像で言っている事をテキストに形式を変えて書くのが、そもそも違うと言っている。
松っちゃんは、映像をそのまま見て意見を聞いて欲しいと言っている。
そこが全然わかってないよね?
話聞いてる?って感じ。
テキストを読むのと映像で見るのはぜんぜん違うよね?
そもそも映像でしゃべった事をテキストで起こして、ほらこんな事を言ってたよ。という手法が違うのは考えればすぐわかる。
例えば
「あいつバカだよね〜」
という言葉も、映像なら
・それを笑顔で言ってるのか?
・真顔で言ってるのか?
・心底げんなりした顔で言ってるのか?
で全然ニュアンスが変わってくる。
語尾の上げ下げ、トーンなどでも変わってくる。
「それどういう意味?」
こんな疑問のテキストでも、表情、声の大きさ、目線でがらりと意味が変わる。
きちんとテキストに意訳すると
・なんだよ、いったいそれってどういう意味だよ(怒)
・え〜なんだそれ、どういう意味(笑)
・うーん、どういう意味だろう(困惑)
・どういう意味やねん、バシ(突っ込み)
と、様々な解釈の展開がある。
ワイドナショーでの会話を一生懸命テキストに起こして、検証してみた。ほら!彼が意味を変えてるって言ってるけど違うじゃん!ってならないよね?
映像の検証は、映像見てしないとw
とくに松っちゃんは、その表情と声のトーン、声を張ったり張らなかったりで笑いを取るのがとてもうまい天才だと思う。
たとえば浜ちゃんの事をよく、引き合いに出すがあれをテキストに起こしたらほぼ悪口になる。だが映像で見れていれば、それはまったく悪口でなく愛があるネタであることは、よほどの馬鹿でもないかぎりわかる。だから、その事は一切話題にはならない。
逆に長いこと文章書いて仕事してるのに、文章であることの強みや弱みをまったくわかってない事に、あきれる。
まして仮にもリベラルな主張をしたいのなら、僕は松っちゃんは是々非々の人だと思うけど、しゃべった事の重箱の隅をつついて記事として出すというのが、もうメディアとして負けを認めてるようなもののように思う。
twitterやインスタなどの、個人が発信できるメディアを運営できる時代にイデオロギーをからめてメディアは情報発信を独占していた時代の香ばしい書き方で文章を公開しても、加工元がすぐ確認できる世の中で意味をなさないのが、わからないのが見ていて可哀想になるくらい時代錯誤だ。