映画「ピーターラビット」の食物アレルギーのシーンに非難集中。これには表現の自由って言わないんだ?

世界で親しまれる英国の児童書「ピーターラビット」の映画が公開され、早速そのワンシーンをめぐってアレルギーの子供の親や団体から多くの抗議を浴びている。

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問題のアレルギーを扱うシーン

そのシーンは主人公のピーターが宿敵マクレガーと戦うときに、敵がキイチゴの種類であるブラックベリーのアレルギーを持つ事で戦うときにそれを投げつけるシーン。

アレルギーのマクレガーはブラックベリーで苦しむが、自分で薬を使い助かるシーンだ。

 

笑い話にするとは何事だ!との抗議

このシーンに対して重いアレルギーを持つ親たちが噛み付いた。SNSなどで様々に声をあげ、それを各メディアを取り上げ出した。

やがてだんだんと知らなかった人までが、いつもの炎上さわぎのように乗っかって、制作会社が「配慮が足りなかった」と声明を出す騒ぎに。

中には、これを見て子供が真似をしたらどうするんだ!場合によっては生死にかかわる事態が懸念される。とまで言う人も

作品のボイコットまで呼びかける人たちまで出ている。

 

はたしてこれからの作品はどのようなシナリオならいいんだろう?

いつも、表現の自由をかかげて政権批判などをしているマスコミはこれに対しては異議を唱えないのだろうか?

深刻なアレルギーをもつ親御さんの苦労は配慮すべきだと思うが、こんな事を問題にしてたら昔話なんかもどんどん検閲が入ってスカスカのストーリーしか作れなくなるんじゃないの?

ドラキュラをにんにくで撃退するのも、いじめでアレルギーを助長する?

真似をしたらって、そもそも行動自体が問題で普通はこれ見てアレルギーの持っている人にやろうと思うかな?

しかもこの映画は動物にオマージュしているし。

いじめだとしたら、それは手法じゃなくていじめる事自体が問題で、他の何かでもいじめは命に関わることがあるから、少なくともこの映画やアニメの影響とかではないと思いますけどね。

 

 

 

配慮で作品を破壊してしまう事も

こうした配慮や抗議で作品自体のシナリオを変えて破壊してしまう事もある。例えば松本清張の名作「砂の器」である。

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これは最初の加藤剛主演の作品で名作と言われ、何回かリメイクされている。

ネタバレになるので見てない人で、知りたくない人は読まないほうがいいw

これが91年のリメイク、2004年のスマップの中居君が主役だったリメイクはストーリーの肝となる殺人をおかす主役の親が実は殺人者だったということになっている。

これは動機として弱い。超弱い

原作も最初の映画も日本の医療の歴史に暗い影を落とすハンセン病(らい病)というものをキーにしないと、この砂の器の重厚で冬の日本海のような鈍色の世界観にはしっくり来ない。

当時の間違った医学の知識でハンセン病は遺伝すると言われ、ハンセン病(らい病)の患者は子供を作ることを否定され、また発覚した子供も隔離されたのである。

だからこそ、殺人をおかしてでも自分のルーツを知るものを徹底的に排除する必要があったわけだ。

もちろん、当時の間違った医療知識に基づく差別描写は問題だが、問題をストーリーで映すのもまた表現であり。作品の主旨である。松本清張はだから書いたのだ。

善意のパトロールが社会から問題を隠匿しないか?

このように善意のパトロールが社会で幅を効かし、様々な表現を去勢していったとしよう。

一見目にふれるメディアは差別や区別がなく傷付くことのない表現のあふれ、つまらない作品で埋まったとしよう。

はたしてそれで現実の差別やいじめや、格差や問題はなくなるのだろうか?

それは「ある」事さえも隠匿してしまうことになりはしないか?

よくアメリカの人種差別を問題にする人に、アメリカには差別がある。
ところが一見それほどの激しい対立がないイギリスやフランスのある階層は対立さえもしない区別してるのだ。実はそちらのほうがひどいという意見がある。

水泳選手に黒人がすくないのは、これが理由だ。同じ水に入りたがらない白人はいまだに多いそうだ。

TVでなく映画だったんでしょ、それでも?

これが地上波で放送されたニュースなどならわかるが、映画である。お金を払って劇場に行った人だけが見るわけである。個人として気に入らないのは自由だがボイコットまで言う必要があるだろうか?

アレルギーのサポートする団体は、これからもこの検閲を続けるのだろうか?

よくある、あの怪獣は何々が苦手だからそれをぶつけてやっつけるんだ!なんていうストーリーが描けなくなるのだろうか?